

ペール・キルケビーは、1938年、コペンハーゲン(デンマーク)に生まれる。自然史学において輝かしい成績を修め、その後、北極大陸の地質学を学ぶ。そのため、グリーンランドおよび北極圏に何度か赴いている。
本格的絵画との出会いは、1962年、「エクススコール(実験美術学校)」に入学した頃である。当時母国で主流だった「風景主義」アカデミズムに抗する動きとして、コペンハーゲンに新しく設立された美術学校である。
1965年、故郷コペンハーゲンで初の個展を開催する。
この時期から生涯つうじて、多才な能力を存分に発揮し、詩、小説、美術に関するエッセイ、映画、テレビ、演劇、ありとあらゆる表現形式へと活動の場を広げていく。しかしそれらは結局一時的なはけ口でしかなく、最後にはいつも絵画制作へと戻るのである。ニューヨーク(1966年)、中央アメリカおよびマヤ文明遺跡群、旧ソ連(1971年)、ハイチ(1982年)、オーストラリア(1985年)、ポリネシアおよびニュージーランド(1988年)、モロッコ(1989年)、遠く離れた土地への関心の高さもキルケビー特有と言える。
キルケビーは、画家および彫刻家として制作活動を行っていた1974年、ケルンの有名ギャラリーにてミハエル・ヴェルナーと知り会う。この出会いが彼にとってのひとつの転機となる。
1980年代、キルケビーは国際的に名前の知られたアーティストへと成長し、作品の独創性が認められ、ミュンヘン、ベルリン、アムステルダム、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ブリュッセル、世界各地の大都市で次々と個展が開催される。
国際的美術家として、1978年にはカールスルーエ大学の教授職に任命され、1988年にはフランクフルト大学でも教鞭を取っている。
力のある苦悩にも満ちた色彩を得意とし、キルケビーは、フォルムとコントラストを生み出すのは色であると考えた。キャンバス上の塊の配置を生み出すものは色そのものであり、表現される世界の奥行きと自我の深さが比例することで叙情的出現が得られる。
夢想や手っ取り早い逃避の手を借りることを許さず、地下から溢れくる流れの縞模様など、濃密で粗野な自然の光景を取り上げ、簡略化されることのない激しいほどに主張のある絵画作品である。
1992年ムートン・ロスチャイルドのラベルに、キルケビーは、巨大なグラスの輪郭を描いている。そこからは暗い赤色のワインが溢れている。そのグラスを囲んで、描線と色彩が調和を描く中、太陽の光とブドウ畑の波が絡みあい、ひとつになる様子が表現されている。